明日は三沢光晴の命日
明日は三沢光晴選手の命日です。
7回忌です。
忘れもしない2009年6月、命日となる6月13日直前に、米子でNOAHの興行がありました。
私は約2週間後に開業を控えていましたが、時間もあることからNOAHを観に行きました。
三沢選手の入場曲「スパルタンX」がかかると、大三沢コールで米子の観衆は迎え入れます。
試合はGHCタッグ選手権の前哨戦の6人タッグ。この時、私はNOAHを観るのが久しぶりでした。
3年ほど、プロレスを観る機会を失っていたのです。
その当時はスロットとパチンコで休日をつぶし、体も鍛えず、自堕落な生活を送っていました。
たまたま観に行ったNOAH、メインイベントは力皇選手と杉浦選手のシングルマッチ。時間切れ引き分けでした。
今であれば、時間いっぱいまで戦った二人を称賛していたかもしれませんが、その当時は「なんだよ、引き分けかよ」と帰途につきました。
翌週、ネットのニュースで「三沢光晴心肺停止」との速報が出ました。
そして翌日には「三沢光晴永眠」と。
その当時、僕はSNSに「斎藤はどう責任をとるんだ、最低だ」などと書き込んでいました。
三沢が死んだ。
僕はものすごく怖くなりました。
人は死ぬ。
自分の祖母が無くなった時も、なんとも思わなかった。
不死身のプロレスラーが死んだ。
僕は「死」を強烈に意識し始めました。
その数日後、私は古川歯科を開業します。
責任、従業員、家族、借金、不安、そんな中で三沢選手が亡くなったことは私の生活に活を入れました。
しかし僕はいつ死んでもおかしくはない、その気持ちで生きないといけないと考え始めます。
“メメントモリ”です。(EOGのTシャツの袖に書いてあります。)
翌2010年、私は友人たちの誘いもあり、「闘強士火プロレス」を復活させます。
僕は学生時代から三沢選手の技を使っていました。
タイガードライバーです。
そして運命は回り始め、2011年7月、松江だんだんプロレスに参戦します。
そして2012年に鳥取だらずプロレスを旗揚げします。
エメラルドフロウジョンは私の必殺技になりました。
これはなにかのご縁なのでしょう。
25年ほど前に三沢さんが米子に来た時のサインをいただきました。
三沢さんのリングシューズも縁あって私の元にあります。
“死”を考えながらいつもリングに上がっています。逆もまた真なり。”死”を意識することは”生”を意識することと同じです。
その”死”と”生”があるからプロレスができる。精一杯生きられる。
斎藤選手に申し訳ないと思います。今の今まで、一言のいいわけもせずリングに上がり続けた斎藤選手。これが本当に責任をとるということなのかと、教えられました。
なにかこのご縁に使命感さえ感じられます、おこがましくもアマチュアレスラーの私が三沢さんの技を使い続けることでなにか伝えられたらいいと思っています。
2009年6月13日から私の人生は変わりました。みなさんと同じように。
投稿日:2015年6月12日 カテゴリー:プロレス, 未分類